テニスの試合によく出ている選手なら、清水善造メモリアルコートに行ったことありますよね。
関東テニス会場の北の聖地として位置づけられます。
清水善造氏は日本テニス界の普及に発展した偉大な人物ですが、意外とネット上では詳しく解説されていません。
普段はテニス通でよく喋る方も、清水善造ってどんな方?と聞くと、目を背けて無口になる方も。
ジュニアに関してはもっと正直で、詳しく説明できるジュニアは少数派でしょう。
今回、聞かれても恥ずかしくないように、原文ベースで詳しくまとめます。
忙しい方は最初だけ目を通していただき、その後はゆっくり読んでいただければと思います。
清水善造とは?

清水善造(しみず ぜんぞう、1891–1977)は、群馬県出身の硬式テニス選手であり、商社マンとして世界を舞台に活躍した先駆者です。1910年代にインドや南米で国際大会を制し、1920年にはウィンブルドンで東洋人初の決勝進出(All-Comers Final)を果たしました。
1921年にはロンドン選手権優勝・デビスカップ準優勝に貢献し、「世界のZENZO」と称えられます。
引退後は実業界で活動しつつ、日本テニス界の普及と発展に大きな足跡を残しました。
下記に、清水善造氏の人生、残した功績を記します。
はじめに ― 世界のZENZOと呼ばれた男
テニスの歴史を語るとき、私たちはつい西洋の選手や大会の華やかさに目を奪われがちです。
しかし100年以上前、日本から海を越え、誰も想像しなかった舞台で名を刻んだ一人の人物がいました。
群馬・箕郷出身の商社マンにして硬式テニス選手、清水善造です。
今でこそ「日本人が世界で活躍する」ことは珍しくありませんが、当時は軟式が主流の時代。
清水はまさに“異端”として歩みを始め、やがて「世界のZENZO」と呼ばれるまでに至ります。
少年期から三井物産へ ― 商社マンが掴んだラケット
1891年、群馬県の箕輪村(現・高崎市箕郷町)に生まれた清水は、高崎中学から東京高等商業学校へ進み、庭球部で主将を務めました。当時日本の主流は軟式テニス。ラケットも柔らかい球も、現在の硬式とはまるで別物でした。
卒業後の1912年、清水は三井物産に入社。商社員としてカルカッタ(現コルカタ)に赴任したことが、運命の転機となります。インドは当時イギリス領で、紳士たちの間では硬式テニスが嗜みとして根付いていました。清水も現地で初めて本格的に硬式テニスに触れ、徐々に頭角を現していきます。
翌1913年には、いきなりベンガル選手権優勝。以後も西インド選手権などで好成績を収め、現地新聞からも注目される存在となりました。さらに1917年、商用出張で訪れたアルゼンチンでは南米選手権に初出場・初優勝という快挙を達成します。ビジネスの傍らで国際大会を制する――まさに「商社マン&アスリート」の二刀流でした。
1920年、ウィンブルドンへの挑戦
1910年代後半、インドで連覇を重ねた清水はついに“聖地”へ挑戦します。1920年、ウィンブルドン選手権に出場。しかもただの参加ではなく、当時の形式である「All-Comers Final」まで勝ち上がり、世界王者ビル・ティルデンに挑むこととなりました。
試合は4-6, 4-6, 11-13。セットを奪うことはできませんでしたが、3セット目は13ゲームを戦い抜く大接戦。東洋人が世界の頂点と真正面からぶつかった瞬間に、観客席からは大きな拍手が沸き起こりました。
この頃、清水はすでに「東洋からの挑戦者」として新聞に取り上げられ始め、イギリスの雑誌 Lawn Tennis and Badminton でも特集写真付きで紹介されています。
1921年、世界に響いたフェアプレー
翌1921年、清水は再びロンドンに戻り、Queen’s Clubで開催されたロンドン選手権を制覇。さらにウィンブルドンでも準決勝に進出しました。準決勝の相手はスペインのマヌエル・アロンソ。試合は6-3, 9-11, 3-6, 6-1, 10-8という4時間を超える死闘となります。
観客が固唾を飲む中、清水は誤審で自分に有利な判定が出た瞬間、審判にそれを申告し相手にポイントを譲ったといいます。これがイギリス中で話題となり、「スポーツマンシップの鑑」として称賛されました。
こうした実力と人柄の双方で、清水は「世界のZENZO」と呼ばれるようになったのです。
デビスカップ初参戦 ― 日本代表としての挑戦
同じ1921年、日本は初めてデビスカップに出場しました。代表は清水善造、熊谷一弥、柏尾誠一郎。フィリピン、ベルギー、インドを次々に破り、初出場ながら決勝「チャレンジラウンド」へ進出します。
決勝の相手はアメリカ。清水は再びティルデンと対戦し、第1セットを奪うも逆転負け。しかし日本チームは準優勝という歴史的快挙を達成しました。
この時の記録や新聞記事を清水自身が大切に保管していたことも分かっており、彼が単なる選手ではなく「記録者」「伝達者」としての意識を持っていたことが伺えます。帰国時に乗船した客船「天洋丸」では、乗客に配布された「地球を一周すると1日得るか失うか」を解説する英文パンフレットを持ち帰っており、その実物が現在も清水善造メモリアルコートのクラブハウスに展示されています。
皇太子の前での競技披露
1921年12月、清水は熊谷らとともに、皇太子(のちの昭和天皇)の前で競技を披露する機会を得ました。千代田倶楽部のコートに立ち、皇室に硬式テニスを紹介した瞬間でもあります。日本国内における硬式テニス普及の一つの節目といえるでしょう。
引退、そして実業界へ
その後、清水は1924年もしくは1927年を最後に国際大会から退き、実業界に専念します。1929年には三井生命に転じ、神戸支店長や取締役を歴任。しかし戦後は公職追放となり、神戸で貿易会社を経営する道を選びました。
1954年には日本デ杯チームの監督として再び表舞台に立ち、メキシコ遠征を指揮。帰路にはアメリカに立ち寄り、かつてのライバルであり親友でもあったビル・ティルデンの墓前に花を手向けています。スポーツを超えた友情と敬意がそこにはありました。
晩年と遺産
1965年、清水は脳出血で倒れ、以後は京都で療養生活を送りました。1977年、大阪で生涯を閉じます。享年86歳。
彼の功績は長らく一部のテニス史研究者の間で語られるのみでしたが、2020年、故郷・高崎に「清水善造メモリアルテニスコート」が開場し、改めて広く知られるようになりました。
世界を駆けた先駆者
清水善造の人生は、単なる「テニス選手の栄光」ではありません。
商社マンとして世界を渡り歩きながら、偶然出会った硬式テニスに全力を注ぎ、やがて国際舞台で日本の存在を示した。そこには挑戦者としての勇気と、スポーツマンとしての誠実さが貫かれていました。
「勝利よりも大切なものがある」
彼がウィンブルドンで示したフェアプレーの逸話は、まさにその象徴でしょう。
現代の私たちが彼の名を知ることは、単なる郷土の誇りにとどまらず、日本スポーツ史そのものを理解する手掛かりになります。
そして、清水善造が駆け抜けた物語は、今も「世界のZENZO」として私たちに語りかけています。
清水善三の人生-年表
年 | 年齢 | 出来事 | 詳細 | 場所 |
---|---|---|---|---|
1891 | 0 | 出生 | — | 群馬県西群馬郡箕輪村(現・高崎市箕郷町) |
1900年代初 | — | 学生期 | 高崎中→東京高商、庭球部で主将経験 | 群馬/東京 |
1912 | 21 | 三井物産入社・海外赴任 | カルカッタ・ニューヨーク駐在/硬式テニスに本格接触開始 | インド・米国 |
1913 | 22 | ベンガル選手権 優勝 | (Bengal Championships) | インド(カルカッタ) |
1914 | 23 | ベンガル選手権 準優勝 | — | インド |
1915 | 24 | インドでの活躍継続 | ※日本語資料では「1915–1919 5連覇」との記述あり | インド |
1916 | 25 | ベンガル選手権 優勝(通算2)/西インド選手権 準優勝 | — | インド |
1917 | 26 | 南米選手権 優勝 | 商用出張中に初出場優勝 | アルゼンチン(ブエノスアイレス) |
1918 | 27 | ベンガル選手権 優勝(通算3)/西インド選手権 優勝 | — | インド |
1919 | 28 | ベンガル選手権 優勝(通算4)/西インド選手権 準優勝 | — | インド |
1920 | 29 | ベンガル選手権 優勝(通算5)/英国タイトル複数 | North London/Sheffield & Hallamshire 優勝 | 英国 |
1920 | 29 | ウィンブルドン All-Comers Final進出 | Bill Tildenに 4-6, 4-6, 11-13 | ロンドン(Wimbledon) |
1921 | 30 | ロンドン選手権 優勝(Queen’s Club) | 決勝で Mohammed Sleem に勝利 | ロンドン |
1921 | 30 | ウィンブルドン 準決勝 | Manuel Alonsoにフルセットで敗退 | ロンドン(Wimbledon) |
1921 | 30 | デビスカップ 日本初出場・準優勝 | 米国に0-5。清水はTilden戦で先行も逆転負け | 米国 |
1921 | 30 | 皇太子(のち昭和天皇)に競技披露 | 宮城内・千代田倶楽部コート | 東京 |
1921 | 30 | 帰国航路で天洋丸に乗船 | 船内文書「Gain or Loss of a Day」現存 | 太平洋航路 |
1922 | 31 | 全米選手権 ベスト8/Greenwich Inv. 優勝 | — | 米国 |
1923 | 32 | 関東大震災チャリティー試合に参加 | 米国内で義援金活動 | 米国 |
1924–27 | 33–36 | 選手生活終盤 | 引退年は1924または1927の説あり | — |
1929 | 38 | 三井生命へ転籍 | 神戸支店長など歴任 | 神戸 |
1945 | 54 | 三井生命 取締役→公職追放 | 戦後は神戸で貿易会社経営 | 神戸 |
1954 | 63 | 日本デ杯監督就任 | メキシコ遠征(2勝3敗)、帰途にTildenの墓参 | メキシコ/米国 |
1965 | 73 | 脳内出血で倒れる | 以後、京都で療養 | 京都 |
1977 | 86 | 逝去 | — | 大阪市 |
2020 | — | 清水善造メモリアルテニスコート開場 | 功績を讃えて命名 | 群馬・高崎 |
参考:
清水善造メモリアルホール 常設展示パネル・展示文書(群馬県高崎市)
上前淳一郎『やわらかなボール』(文藝春秋、1988年)
牧村祐一・小原荘司・増田三郎 編『続・清水善造伝』(一橋大学庭球倶楽部、1980年)
矢島鐘二・福地豊樹「清水善造美談『美はしき球』に関する一考察」『日本スポーツ人類学雑誌』第24号、2002年
群馬県立図書館『郷土にかがやくひとびと―清水善造:テニス国際化のパイオニア』(展示資料、2016年)
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